昭和48年05月08日 朝の御理解



  御神訓 一、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」

 これはなかなか問題のある御教えです。信心しよっても早死にをする人があるではないか。あんなにお徳を受けておられた方ですら、早死にされたじゃないですか、と言ったような場合があります。二代金光様四神様等はそうです。やっぱあれだけの御神徳を受けられて、金光教が四神様の十年間の御奉仕の間に、全国に広がったという程しの御神徳を受けておられた。けれどもお亡くなりになるのは四十才という若さで亡くなられた。
 ですから、生きるとか死ぬるとか言う事ではないと思うですね。神徳を積んで長生きせよと言う事は、神徳を積んで永生、教祖様のお言葉の中にもございますが。金光様あなたは、生神の位を頂いておられるから、いつまでも生きられなさるだろうという意味の事を、あるご信者が申し上げた時に、此方とても生身を持っておるから、塩漬けにしとく訳にはいかんからと仰ったそうです。
 永生きとはいついつまでも、人が拝んでくれる事だという意味の事を仰ったそうですね。四、五日前に深夜ち言うか遅く、二十三時ショ-というのがあっておるので、霊魂は不滅なものか何かといった事をですね、学問的に究明しておる人達の話があっておりましたがね。偉い人いうならば、徳を受けた人の御霊は、いついつまでも生きとる。けども普通の御霊は、二十年か三十年くらいしたら、もう何やらかにやら分からんようになってしまうと言う様な感じだと言ってますよね。
 分からないけれども、そういうふうに話しておりました。そう言う様な事から考えてみましてもです、霊魂不滅とこう申しますけれども。それは徳を積んだ御霊であって、はじめて、霊魂不滅という事が言えるのじゃないでしょうか。だから、教祖様が仰るように、その御霊が、いついつまでも、人から拝んでもらわれる程しの御霊という事がです。いわゆる、永生き、生き通しと言う事になるのじゃないでしょうかね。だからどうでも、神徳を積まなければならない。
 まあその生きたくばと言う事を、生きるとか死ぬとかと言う様な事ではない。これは一つの一見解ですけれども、そういうふうに聞いて頂けばよいと思うのです。だから神徳を積んでとこう仰っておられる。だから神徳を積むという事なんですよね、問題は。私は今日価値あるもの価値ある信心、値打ちですね。物でも値打ちのあるものと無いものがあります。信心もやはり値打ちのある信心と値打ちの無い信心があります。あれはエメラルドですか、青い石は。
 あの石の入った指輪をね、小指にこうやってはめてる。そして少しガバガバしよる。だからねこう回ってから、裏の方へなっておるといった様なところを御心眼に頂いた。まあエメラルドと言えば、宝石の中でも大変価値のある。しかもあれは青い色が冴えておるのが良いとされてるそうですけれども。青と言う事は、生き生きとした信心という様な意味に頂いたんです。
 そんなら、私共は、生きた神様を頂いておるわけですね。天も地も、昔から死んだ事なし。生きた神を信心せよと仰るように、生きた神を信心させて貰った。だから、私共の心が、生き生きと生きておらなければです、その生きた神との繋がりというものが出来んのです。だから、お取次という働きによって、お取次の働きが生き生きとしてあっておる御広前では、おかげが受けられるというのは、それです。
 ですから、お取次を願う皆さんの場合も、だんだん信心を分からせて貰うて、生きた信心、生き生きとした信心を身につけていかなければならない。生きた信心というのはです、石にでも、死石、生石というのがあるそうです。様にね、私共の心もやはり、死んだ心と、生きておりながら、死んだ心と、生きた心とがあるのです。だから、生きた心というのはですね、私共が芯から情けないと思うたり、腹を立てたりする時には、必ず生きておる時です、心が。
 ですから腹立てたり、情けながったりする事は、神様の一番お嫌いなる事ですから、生き生きとして、神様のおかげの頂けん方へ進んでおるのと同じ事です。涙の出る程有難い言うでしょう。これなんかは、生きとるから涙がこほれるのです。ほんに有難かこっじゃああるのぅやと言うたっちゃ、口では有難いと言いよっても、芯から、生き生きとした物がない、有難いというのは、おかげには繋がらない。
 真に有難しと思う心、直ぐにみかげの初めと仰るように、生き生きとした心というものをです、私共が頂くということ。如何に私共が、おかげ頂きたいと、天地に手を差し伸べましても、その差し伸べておる手が生きていなかったら、枯れた木やら、枯れた枝が、どうぞ助けて下さいと言うても、葉を出す事も、伸ばしてやる事も出来んと仰る。私共の心が、生き生きと、神様に喜んで頂く意味合いに於いての、生き生きとした心を願わせて頂くというのが信心です。
 ですから先ずは、そういう信心をさせて頂くと言う事が、まず価値ある信心と言う事になるでしょう。そんならその信心をですその頂くおかげをです、どう行使させて貰うかと言う所に、又価値ある信心と言う事が一段と言えれると思うです。どんなに素晴らしい指輪をはめておってもです、普通紅差しとも言や薬指とも言う。この指に差す例えば娘さんの場合ならば、中央の真ん中の指にとかという風な、何かあるそうですけれどもです。とにかく、はめておかしくない指にはめる。
 親指にはめたり、人差し指にはめたりしたんではいかん。そんならそれは、小指になんかはめておる人があっても、ガバガバしとるとじゃいかん。折角価値のある信心を頂いておるのですから、きちっときまるところへはめさせて頂いて、価値ある信心という事になるのであり、指輪なら価値ある指輪という事になるのじゃないでしょうか。価値ある信心。それは私は、おかげ信心から脱却した、神徳を積んでいくと言う事が楽しいという信心が、価値ある信心なんです。
 おかげおかげと言うて、おかげに終始しておる。おかげと言う事によって神様が分かる。はぁ成程神様じゃなと分からせてもろうたら、その神様の心を教えによって、神様の心を分かって、その神様のお心に添い奉っていくという信心は、神徳を積んでいく。神様の心が分かって、神様の心に添い奉る信心、それを神徳を積む信心。神様の心には添わずに、神様を自分の心の方へ添わせようとばっかりしておるような信心では、何十年たっても駄目です。神様を自分の思うようにしよるとだ。
 昨日の朝の御理解の中に、まぁ昨日の御理解を一口で言うならばです、思うようにならぬ、そういう思うようにならぬ事をです、地肥やしにせよと。自分の心を肥やす材料に、肥料にしていけという御理解でした。思うようにならんと腹が立つ、思うようにならんと情けない、これでは、一つも心を肥やす肥料にはならない。思うようにならんのが浮世だと思うて、思うようにならん事を生かしていく。それは思うようにならない事、その事をもって自分の心の根肥やしにさせて頂く。
 是によって信心を分からせて貰う。是が信心の根肥やしだと思うて有難く頂いていく。そこからですひとりでにおかげが生まれてくる様なおかげになるのだ。地を肥やさずしては、ひとりでに生まれてくると言う事はない。地を肥やしておくからひとりでに物が出来るようなおかげを頂く。是なんかは価値ある信心です。だから価値ある信心とは、神徳を積んでいくと言う事。そんなら神徳を積むと言う事は、只今申します様な、思う様にならん様な事をです、自分の心の根肥やしにして行くと言う様な信心。
 教主様の歌集の中にこういう詠があります「人を馬鹿に見ゆるは、己賢しと思い上がりてあるにあらずや」と。あらちった馬鹿じゃなかろうかというふうに見える時にはね、自分自身が思い上がっておる時だと。まあ普通で言う馬鹿というのがありますよね、ある事はあるけれどもですよう見よるとです、私よりも優れたものを持っておるです。そういうものがどこかにあるです。とても軽うだん見られんという感じがする。同時に自分自身というものを掘り下げて、自分自身が分かっておると人を軽う見らんですむ。
 久留米の初代の石橋先生が、大変難しい講話を聞かれた。それは信心生活についてと言う事であった。先生は別に学問をしておられると言う訳ではない。ですから非常に学のある先生のお話を頂いておられると、中々理論的で意味が分からない。そこで神様に神様只今、信心生活と言う事についての話を、折角頂いておりますけれども、意味が解りません。どう言う事でありましょうかと言うて、神様にお伺いをされたら、御心眼にね、真新しい羽二重の布団に、赤ん坊が裸でポンと寝せられてある所を頂かれた。
 そしてそれに今度は、赤白の水引を掛けてある所を又頂かれたと言う事です。信心生活とはこう言う事だというお知らせを頂かれたと言う事です。だから信心生活というのは、本当の信心生活が出来るという事がです、生活をさせて頂く、私は価値だと思う。価値ある生き方というのは、真の信心生活だと、私は思うです。価値ある生活。だから信心をしておってもです、いわゆる信心生活をしよらん人がある。生活の中に信心が生き生きとして生きていない。
 いわゆる信心の中に、生活があると言う様な生き方。そういう生き方を、神様は石橋先生に教えておられるわけです。人間が生まれてきた時に、それこそ布一寸でも握ってきたという者はおらんじゃろう。丸の裸で生まれてきておるのが人間です。ですから自分の身に付いておるというならば、それは着物であろうが、布団であろうが家であろうが、財産であろうが一切がです、それはお前の物ではないんだと、私のものとはそれこそ、一つもないという生き方。
 そこで与えられるものその全てに感謝する生活。それが信心生活だと思う。一切があなたの御物であるという。いうならあなたからのお預かりものとしての頂き方。そういう生き方がです信心生活だと、神様が教えられたと言う事であります。そういう生き方をです、私は価値ある生き方であり、価値ある信心だと思い。それこそ神徳を積んでいく、生活とはそういう生活であると思うです。昨日も総代会でお話した事ですけれども。本当に信心の時間、または信心にかかる経費と言う様なものを別にせずにです。
 もう生活の中にいうなら、信心の中に生活があるという、生き方を頂きますとです。時間が惜しいとかお金が掛るとかと、そんな事は全然問題でなくなってくるです。私は実意な生き方というものはね、徹底そこが出来た時に初めて、そこが出来ると思うですね。今日は忙しかけん朝の御祈念御無礼しよう。今日は忙しかち言う時には、自分の仕事になってしまっています。だから今日は御無礼しようになってくる。それが信心という事が中心になっおればです、信心の中に忙しい御用はあるのですから。
 お金でもそうです。自分のお金からちょこっとばかり、こうやっでお供えしよるけん、何か金がかかると言った様な思い方になる。この全部が神様の御物だと言う所からですから、もう本当のお初穂としてのお供えが出来る。いわゆる価値あるお供え。昨日の御理解で言うと、価値ある還元と言う事になるでしょう。だからひとりでに物が出来る。価値ある還元、又は思う様にならん。その事を自分の心の肥料にすると言う様な生き方こそ、ひとりでにものが出来る。
 是は一人でにものが出来ると言う事その事がです、徳を積んでいく者の生き方であり、そういう生き方が積徳。徳を積んでいくと言う事になるんです。だからお互い本当に価値のある信心をしなければいけませんよ。こうする事が本当だと言う事がです、もうたんたんとして出来る。その話を阿倍野の先生が、私が泉南教会におる、そこへわざわざ会いに来てくださった。その日は記念祭のあくる日で、親教会京都の教会にお礼参拝をされると言う事であるから。
 私はそちらの方へ行かれるついでに泉南教会に寄られるものとばっかり思うておった。所が何と反対に泉南教会というのは、京都とは反対の方へ、しかも二時間掛りで来なければならない所に、しかも一介の田園教会長である、まあだ名もない大坪という者がです。九州からわざわざ先生にお目にかかりに来ておると言う事を、前の晩に聞かれて先生が自ら、私の所へ会いに来て下さった。若先生を伴にして。もうどんなに考えても恐れ入っていまう。そして又阿倍野へ帰ってから又京都の方へ行っておられるその足で。
 そういう実意の限りというものをですね、尽くすとか尽くさないじゃない。もうそれをです、当たり前の事としてなさっておられる所にです。いかに先生の信心が、はぁ今日大坪さんに会いに行きよるならば、何時間損をするとか、何時間掛るけんで親教会に出るとがまた遅うなるとか、そういうものが全然問題じゃない訳です。そうする事が本当だと言う事を、淡々としてやってのけておられる。と言うてその例をもって、昨日も話た事ですけれどもですね。
 それはもう二時間も走れば自動車のガソリン代も要る、時間もそういうお忙しい日に、わざわざそんなら四時間という時間を、私のために費やしておられる。それを費やしておるという思いでも全然おありにならないという感じです。信心生活とはそれなんです。だから楽でしょうが皆さん。価値ある信心とはそういう信心です。とてもとても私共が、及びもつかないのですけれども、手元の小さい所からでもです、そういう信心を身につけていくと言う事が、取りも直さず積徳。徳を積んでいくと言う事になるのです。
 だから価値ある信心とは、徳を積む信心を価値ある信心と言うことになる。何十年信心しておっても、徳を積むのではなくて、おかげを積んでいくという様な信心ではです、徳積みにはらならん。いわば、価値はない。ただ、おかげは頂いても、価値のある、それこそ、生き通しに生きられるという程しの事にはなってこない。後々の者が拝んでくれると言う様な魂の世界に入って行く事は出来ない。
 徳を積んでおくと言う事、それが私は生きたくば神徳を積みて永生きをせよという。そういう価値ある信心を身につけていく。価値ある信心徳を積んでいく信心。是はですね誰から言われんでも、もうそれこそ人が見ようが見よるまいが、そこん所を大事にしていかなければおられなくなってくるのです。徳を積む信心というのは。所謂価値ある信心とは。いやむしろ人の見ない所、いうならば着物なら着物のね、表よりも裏に良い裏をつけると言う様な生き方。
 だから着とって気分がいい。人が見てないからお粗末にする、人が見ていようが見てまいがです、見てない所を大事にするというから、気分がよい生活が出来る。それがおかげの受けもの、いやお徳の受け物になるのです。だから徳を積んでいくという価値ある信心をさせて頂こうという事からです。本当の真の信心というのは徳を積んでいくという信心を目指す所から、本当の信心真の信心というのは、自ずと出来て来るんだと、私は思いますね。
   どうぞ。